御言葉メール1119
2022年3月20日
「しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」第一サムエル15の35
サムエルの悲しみ、辛さ、葛藤は、キリスト者が祈りにおいて経験することに、似ているのではないでしょうか。自分と人の為に祈る、そこで、何故ですか、と問う葛藤に似ている様に思われるのです。
神はサウルを王位から退けられた。その神に対してサムエルは、サウルを選ばれたのは神ではないか、それなのにサウルに対して神はあまりにも厳しくはないか。サウルも神によって王となったのに、何故神の言葉に従うという重要性がわからないのか。サムエルは、神のサウルに対するお取扱いに葛藤を持ちながら悲しみます。
しかしその時、実は神も共に悲しまれていることを聖書は伝えます。「悔やまれた」という表現の中に、神のみこころに従い得ない、人間の弱さに対する神の悲しみが表されているといわれます。
サウルの悲しみ、サムエルの痛みの中で、神もまた苦しまれる。
それは十字架上のイエス・キリストにおいて、完全に知る事のできる神の姿です。このキリストの執り成しにより、葛藤や辛さの中にも、キリスト者は神に祈る力をいただけるのでしょう。