御言葉メール1033
2020年7月8日(記:斉藤文子)
「しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。……私をさばく方は主です。」第1コリント4の3,4
人から裁かれる、あるいは人を裁く、ということを私達は意識するまもなく、自然発生的にしています。それは自分に対してもです。私達にとってこの自然にわいてくることが罪であるとわかるのは、聖書が「さばいてはいけません」と教えているからです。何故、裁いてはいけないのか。それは創造主であり救い主である神の領域だからです。
パウロは、コリント教会の生みの親でありながら、コリント教会から批判され裁かれていました。それは教会内の分派争いの結果、多分にパウロの側につかない人達からのものと思われます。それに対してパウロは、コリント人でも他の人でも人間の下す判決は気にしない、と言う。パウロが自分を裁こうと思えばできるが、それもしない。自分で今、やましい事がないと思っても、それで自分が罪人でなくなるわけではない。パウロがここまで大胆に言い切れるのは、さばくのは人間ではなく、主である、という教えに堅く立つことができたからではないでしょうか。私自身の事を考えてみると具体的には、よく理解していないのに簡単に人を判断してしまったり、思い込みで人を評価してしまったり、自分を簡単にだめだ、と思ってしまったりしやすい者です。その時、自分の罪を赦して下さっているキリストこそ、一番、正しいさばきをされる方だという事をいつも思い起こせる様に祈らされます。