御言葉メール340
2007年11月28日
「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。」(Ⅱサム12の20)
教会に礼拝を捧げる喜びがあるだろうか。単に義務となっていないだろうか。ダビデは、罪の結果ではありますが、大切な子どもが病み、苦しんでいます。その時、彼は食事も取らず、身体も洗わず、ひたすら助けを求めて祈り続けました。
そして子どもが息を引き取ったと聞いた時、彼は食事を取り、身体を清め、正装して神の宮にて礼拝を捧げたのです。人は自分の罪深さを省みずに、深い悲しみの故に、神の義と憐れみを疑います。しかし、ダビデが先ずしたことは、神の宮に出向き、神に礼拝を捧げるため、身体を清め正装することでした。神を信じるということ、神に仕えるという事は、このようなことなのだと教えられた気がしました。
私の気持ち、状態によって神を礼拝したり、しなかったりするのではないく、むしろ一番人間的には神を礼拝しなくても当然だと思われるときこそ、正装して神に向かう、このことが神を信じる神の民の証だと教えられたのです。
御言葉メール340
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