金沢聖書バプテスト教会

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クリスチャンのあかし

救われた証し

投稿日:

2011年特別伝道集会のO兄の救われた証です。

救われた証し
2011年9月25日(日)

私個人の救われた証しをさせていただきます。

何度目かの「証し」ですが、こうして文章にまとめているだけでも、
初めて信仰を告白した当時より、また過去の証しの機会のときよりも
「何からどのように救われたか」をより豊かに確認することが出来てい
ることに感謝しています。
今回は、集われた皆さんへの証しというよりも、今、自分が信じてい
る聖書の神さまに対するつたない告白になっていることを、あらかじめ
お断りしておきます。

大学生のときに友人に誘われて初めてこの教会に来た頃、私はとても
思い上がった人間でした。小さい頃から我が強い性格で、それまでも人
からの意見など素直に聞いたことがありませんでした。学生だった当時
は、それに加えて自分をごまかしていながら、それでも自分はわりと
かっこよく生きていると考えている人間でした。
自分をごまかすとは、いろいろな問題を抱えていながら、また不安を
持っていながら、自分なら何とかなると、どこかで高を括って困難から
目を背けていたということです。

かっこよく生きているつもりとは、ほんとうは目の前に問題が山積み
になっているのに、そのことをどこか他人事のようにさめた目で見てい
る、それが自分のスタイルだとを思っていたからです。根拠の無い「自
分なら何とかなる」という自信やプライドで、ひとときは不安を無視し
たり、現実の問題や自分の力の足らなさにいらだったりして、心が揺れ
動いていました。
プライドは人一倍あるので、人に甘く見られたくない。でも、現実へ
の無力感も持ち合わせているので、どうとでもなれという無責任な行動
も平然ととってしまう。いつも不安定で情けない、他人にも自分にも面
倒をかけるみじめな毎日でした。
私の内面をよく見ておられる方は、「何だ。今とちっとも変わってい
ないではないか」と言われるでしょう。確かに二十数年前の私も、今の
私もおろかなままで、成長したとは言いがたい状態です。しかし、今の
わたしは変わりました。何が変わったのかと言えば、自分ではなく、歩
んでいる道が変わったのだと感じています。

以前は、自分の真ん中にいつも動かしがたい「自分」が必ずいまし
た。忠告やアドバイスを受けながら、それでもは絶対にさらけださない
ものが心の中にありました。自暴自棄になっている時でさえ、どこか
「自分」に酔っているような気分でした。今、考えればこれが神よりも
自分を愛する「罪」の本質なのだと思わされます。

そんな私が、教会での交わりや聖書の学びを通して教えていただいた
ことは、「神さまがおられる」というほんとうにシンプルなメッセージ
でした。しかし、私はそれを素直に認めることはしませんでした。不安
なときであれ、根拠の無い自信に満ちたときでさえ、それまでの私には
「自分」が全てだったからです。「わたしの生き方を変える私以外の存
在」は、知識として理解できても、まったく従えませんでした。
いくら教えられ、聖書からメッセージを聞いても、いつも私は「自
分」というものから離れられなかったのです。実際には、何も出来てな
いにも関わらず、自分で自分を何とかするということだけは、決して誰
にもわたすつもりはありませんでした。

ですから、神さまが一方的な「救い」を与えられるという御言葉は、
当時のわたしにとって気に入らなかったのです。「救い」という事柄の
なかに自分の役割がまったく入ってこない。主役ではない。自分の出番
がない。世界の中心は自分ではなく「神さま」であるという
この聖書が教えようとする内容は、長い間わたしをかたくなにさせまし
た。
しかし、この「救いに関しての全責任を神さまが背負ってくださる」
という同じ真実が、そんな私を解放してくれたのです。
ある日、すでに神さまを信じていた友人との会話のなかで、私はかた
くなに「これほど話し合っても神さまを信じれないのは、自分には罪が
あるからだ。」と言い張っていました。

その時、彼は「それを気付かせてくださったのが神さまではないの
か」という意味の言葉を返してくれました。
一瞬のことでしたが、私は友人の言葉がほんとうのことだと驚きなが
ら納得しました。そして私の知らないうちに、すでに自分をそのように
罪を告白する者へと変えられた神さまがおられることに感動を覚えたの
です。
そのあと、私は牧師に電話を掛け「イエスさまを救い主として信じま
す。」とたどたどしく告白したのです。
あの時、私の心は砕かれましたが、それをくやしいとは思いませんで
した。全部を背負い込んだつもりで、それでも自分を救えないと分かっ
た敗北感があったはずですが、救いに関しての重荷が消えた喜びの方が
大きいものでした。自分の心の中に「救われたことを喜んでいる」とい
う思いがあったことがほんとうにうれしかったのです。

自分のことしかなかった罪人のわたしのためにイエスさまが身代わり
として十字架にかかってくださったことが、どれほどのことなのか。い
まも教えられ続けていて、ほんとうにすこしづつですが学んでいます。
苦しみはありますが、以前のような何も分からない状態とは確かに違
います。以前は「どこにいくのか」「何をすべきか」「何が良いことな
のか」、そのすべてに自分だけで立ち向かおうとあがき、しかも何も為
せない死んだ者でした。
自分が自分の主人でありたいと縛られていたときは、ほんとうにただ
苦しみに飲み込まれていました。しかし今は、一番すばらしい主人をも
つ僕として、平安をいただいています。しかもイエスさまは十字架にか
かれれた後、三日目に蘇られました。このことにおいても、私のかわり
にはっきりとした勝利を得てくださっていることに心から喜びを覚えて
います。そしていま、イエスさまは天におられるのですから、わたしの
この今の歩みだけでなく、死んだ後の歩みまでも支えてくださっている
わけです。

もう一度告白しますが、私は若い頃と何も変わってないように思えて
います。愚かなままですし、神さまの喜ばれるような僕でもありません。
しかし、私は良い主人に召し出され、その主人は私の父ともなってく
ださいました。いま私は昔のようにひとりではなく、父の憐れみの中で
生かされ働いているものです。しかも私は自分に振り回されても、すぐ
に諭され「ここにいなさい」と安らかな場所に導き出され続けていま
す。イエス・キリストを通してのその保証はこのような者の中に確かに
在ります。そのようなわけで、外からはどうのように見えていても、私
は主にあって幸せな者です。

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