救いの証し
私が、イエス・キリストを信じるようになった時のことを証します。
私は、友達が統一協会に入ったことがきっかけで、キリスト教に導かれました。統一協会は、聖書を使って教理を教えていたので、私は友達に統一協会の間違いに気付かせたくて、聖書を学び始めました。しかし、聖書を学ぶうちに私自身が、聖書に書いてあることは真実だと信じるようになったのです。
その時私を信仰に導いた御言葉のひとつが、コリント第一の手紙1章18節の「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」というところです。
十字架は、イエス・キリストが十字架刑で死んだことから、キリスト教のシンボルとなり、今日で
はアクセサリーにまでなっていますが、そんなロマンチックなものではなく、十字架に、人が、釘ではりつけにされるという、残酷な処刑方法でした。そのような苛酷な死をイエス様が味わわれたのは
、私たちの罪のあがないの為でした。神のひとり子を磔にするほどに、私たち人間は罪深く、また、神の愛も深いというのが聖書の教えでした。
キリスト教の教えに初めてふれて、私の価値観、世界観は覆されてしまいました。それまで私は、自分が生きたいように生きればいいと強く信じていたからです。天国も地獄も、神の存在も、証明できるものではないし、各人が信じたいように信じればいいと思っていました。ひとつの宗教に凝り固まるのはナンセンスと。
ところが、全知全能の創造者が存在する。唯一にして真の神が。その神が、私たちに生き方を問われているとしたら?審判が事実で、そして、唯一の救いが聖書にあるのだとしたら?初めは確かめたいと言う思いから、聖書の学びにのめりこんだものです。
信仰を持ってからの16年間を振り返ると、実に様々な事がありました。孤独な時、憤った時、自分の弱さを知らされた時、いつも御言葉によって支えられてきたことを覚えます。教会という共同体が慰めとなったことも幾度もありました。また、教会を通して多くの神の業を見させられました。
近頃一番感じているのは、夫と2歳になる娘の存在の大きさです。家族で暗証聖句を言ったり、お祈りをしたりします。私は独身生活が長かったので、こんな恵みは自分には無縁なものと思っていました。ただ神の御名をあがめます。
金沢聖書バプテスト教会教会員 K・T
私は、友達が統一協会に入ったことがきっかけで、キリスト教に導かれました。統一協会は、聖書を使って教理を教えていたので、私は友達に統一協会の間違いに気付かせたくて、聖書を学び始めました。しかし、聖書を学ぶうちに私自身が、聖書に書いてあることは真実だと信じるようになったのです。
その時私を信仰に導いた御言葉のひとつが、コリント第一の手紙1章18節の「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」というところです。
十字架は、イエス・キリストが十字架刑で死んだことから、キリスト教のシンボルとなり、今日で
はアクセサリーにまでなっていますが、そんなロマンチックなものではなく、十字架に、人が、釘ではりつけにされるという、残酷な処刑方法でした。そのような苛酷な死をイエス様が味わわれたのは
、私たちの罪のあがないの為でした。神のひとり子を磔にするほどに、私たち人間は罪深く、また、神の愛も深いというのが聖書の教えでした。
キリスト教の教えに初めてふれて、私の価値観、世界観は覆されてしまいました。それまで私は、自分が生きたいように生きればいいと強く信じていたからです。天国も地獄も、神の存在も、証明できるものではないし、各人が信じたいように信じればいいと思っていました。ひとつの宗教に凝り固まるのはナンセンスと。
ところが、全知全能の創造者が存在する。唯一にして真の神が。その神が、私たちに生き方を問われているとしたら?審判が事実で、そして、唯一の救いが聖書にあるのだとしたら?初めは確かめたいと言う思いから、聖書の学びにのめりこんだものです。
信仰を持ってからの16年間を振り返ると、実に様々な事がありました。孤独な時、憤った時、自分の弱さを知らされた時、いつも御言葉によって支えられてきたことを覚えます。教会という共同体が慰めとなったことも幾度もありました。また、教会を通して多くの神の業を見させられました。
近頃一番感じているのは、夫と2歳になる娘の存在の大きさです。家族で暗証聖句を言ったり、お祈りをしたりします。私は独身生活が長かったので、こんな恵みは自分には無縁なものと思っていました。ただ神の御名をあがめます。
金沢聖書バプテスト教会教会員 K・T