御言葉メール747
2014年9月20日(記;斎藤文子)
「心の貧しい者は幸いです。・・悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5の3~4)
イエス様は「放蕩息子」という有名なたとえ話しをされました。父から財産の自分の分け前をもらい、放蕩三昧のあげく父の元に帰ってきた弟息子。
息子の帰りを待ちわびていた父の喜びは大変なもので、祝宴を開きます。そこに父に仕えてきた兄息子が、畑から帰ります。兄は自分が働き続けても、宴会ひとつしてくれない父が、放蕩三昧の弟が帰ってきたら祝宴までしてやる事に腹をたてます。この父は明らかに神であり、弟はイエスのもとに来ている取税人、罪人。兄は彼等に眉をひそめたパリサイ人、律法学者。
私はイエス様を信じた時に、弟息子の様にようやく神のもとに帰ったのだと思いました。しかし信仰生活の中で、神と共に在る事の幸いをどれだけ味わい喜んできただろうか。いつも父の側に居ながら、その恵みに気付かず不平不満に陥る兄息子の様ではなかったか。神と共に居て、弟息子の様に、心貧しく悲しむ者の慰めを享受し続けてきただろうか。
悔い改める事ばかりです。自分に絶望し、この世のどこにも期待を見いだせず、自分の罪のために悲しむ事しかできない者。イエス様はそういう者こそ本当に幸いな人だと言われた。なぜならその人は、弟息子が父に帰った様に神に帰るからです。その時、私達は更に神の愛を教えられていく者とされるでしょう。