御言葉メール789
2015年7月25日(記:斎藤文子)
あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第1サムエル15の23)
今回、私は第1サムエル記を読みながら、なぜ神は最初から神信仰に生きようとするダビデを選ばず、先ずサウルを選ばれたのだろうかという疑問が出てきました。イスラエルが神に直接おさめられる神権国家から人間の王をたてる王制に移行しようとする時、先ず、神は王として神に従い得ないサウルを選ばれた。
久利英二氏という方はサムエル記講解で次の様に書いておられる。「信仰的要請にこたえられなかったサウルの欠陥は、サウルだけのものではない。ごく普通の人間の持つ欠陥が、イスラエル王制という舞台の上で浮彫りにされたのである。人間の持つ罪人としての実体が、信仰の民イスラエルの王という責任ある位置において見事に描かれているのである。
後に続くイスラエルの王が、サウルの轍を踏んではならないのは勿論のこと・・・読者もサウルの悲しみに共鳴し、自分の悲しみとすることができるまで、サウルと神とのつながりの問題の核心に少しでも近づきたい。・・それだけではなくサウルの悲しみを一身に担おうとされる方に心を向けたい」
サウルの罪を自分の罪として理解する時、神に従い得ない自分の悲しみとその者をあくまでも担おうとされる方に心を留める時、私は自分の問題が解決されている事に気づきます。