金沢聖書バプテスト教会

金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

901-950

御言葉メール942

投稿日:

御言葉メール942

2018年8月19日(記:辻嵐桂子)

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。(詩篇139篇8-9節)

この詩篇には、神の全知(1-6節)、偏在(7-12節)、創造(13-16節)といった要素が見える。
それは神学的記述ではなく、神は私を知っておられ、神はそこにおり、神が私を意思をもつて造ってくださったと、私(著者)と神との深い関係を告白したものである。

人はしばしば、言いようもない苦しみの中で、神に期待できなくなり、信仰に失望する。
こんな酷い状況がなぜ見過しにされているのか、神はどうして何もなさらないのか、神は本当に私を愛しているのか、こんな神を信じることに意味はあるのか、と。

この詩篇も、後半に敵への報復を訴え、祈りの言葉で終わっていることから、非常に困難な状況の中で書かれたものと思われる。
事実、この詩篇の著者ダビデの生涯は、苦難の連続であった。

だが彼は、全ての苦しみを神はことごとく知っておられ、そこに全能の神のご意志があり、何時如何なる時も、神の手が自分を捕らえ、神の目が自分に注がれていたことに驚嘆し、また安堵を見出だし、その信仰の生涯を全うして行くのである。

私自身は、それほどの試練を経験したわけではないが、それでも自分の信仰生活を振り返ると、この詩篇に共感せざるを得ない。
自信喪失し希望が持てなかった時も、愚かにも神に背を向け、顔を背けていた時も、神が私を選び、私を捕らえていてくださったので、私は今日まで神を信じて来れたし、これからも信じて行きたいと思う。
今失意の中にあり、或いは神から遠く離れていると感じている人たちも、神が捕らえて下さいますように。

カテゴリー

-901-950

Copyright© 金沢聖書バプテスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.